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2015年5月31日 (日)

古典映画を観る時の緊張感

映画の夢 夢の批評読破。やはり集中して読めば半日かからなかった。読み易いって事もあるけど写真だけのページが多いから実際のボリュームはページ数の8割程度だったりするので。

あとがきを読むと今更ながら俺の知らなかった幾つかの事実が明らかになる。まず翻訳者として山田宏一氏と共に蓮實重彦氏の名が挙げられてる理由は、そもそもこの本が山田氏初のフランス語文献翻訳の仕事で、フランス文学の権威で映画仲間でもある蓮實先生に山田氏がサポートを依頼する形で作業を進めたからなんだと。ほぼ同時期に出版されたヒッチコック/トリュフォー(映画術)も同様に翻訳がダブルネームなので作業工程は一緒なのかも。

本自体の寸評を書くと、それまで別の書物でトリュフォーの文献には触れてたから新鮮な感動こそなかったりする。ただ山田氏の名著友よ映画よの記述にある、カイエ・デュ・シネマ同人の屁理屈こねても仲間を擁護する姿勢が明確に現れてて凄く興味深い。仮に失敗作だったとしても巨匠の作り上げた失敗作だからこそ価値があるとか何とか。筋が通っていそうだけど冷静に考えると全く筋が通ってないという。

それ以上に、この文献に触れると紹介されてる映画を凄く観たくなる。これ、映画批評として一番大事な要素じゃないかな。絶賛するにせよ酷評にせよ、読み手を映画から遠ざけてしまう批評に価値はないってのが俺の持論。実際、トリュフォー自身もそれに近い事を書いてて、酷評する際も作品に対する愛を込める努力は怠らなかったんだと。但し、酷評された側にはその愛が全然伝わらず、死ぬまで批評家トリュフォーを恨み続けた巨匠もいるらしい。

話を戻せば、そんなこんなでジャン・ヴィゴ監督作品アタラント号のLDを買ってしまった訳だけど、こういった古典映画を観るのにはかなり勇気が要り、緊張する。それは古いし小難しそうだから疲れるとか頭を使うとかそういう意味じゃなく(正直言えばそういう部分とてなきにしもあらずだけど)むしろもし俺にこの作品の真価が理解出来なかったらどうしようという不安感だね。

若かりし頃はそういった古典に触れる際、分からなかったら恥ずかしいみたいな見栄があって絶対にネガティブな意見を口に出せなかった。それどころか実は全く面白いと思ってなくてもポーズ的に面白いと周囲に触れ回ったりして。今はそんな事もなくなったけど相変わらず古典に弱い。特に敬愛する作家や批評家の絶賛する作品には。

これがハリウッドの娯楽大作なら好き勝手な事を言える。面白いんだけどあそこはイマイチだったね~とか己の身分も顧みず減らず口叩いたりして。じゃあ同じ事をジャン・ヴィゴや、同様に夭逝した日本の天才監督山中貞雄、またはヌーヴェル・ヴァーグをしてフランス映画の父と言わしめたジャン・ルノワールの作品で言えるかと問われれば、口が裂けても言えない。

既に多くの偉い人が絶賛してるから恐れ多いって事もあるけど、トリュフォーだったり、そのトリュフォーが師と仰ぐアンドレ・バザンだったり、日本の映画評論家として俺が最も敬愛する山田宏一氏だったりが絶賛する映画を理解出来ないのは怖い、むしろその魅力を分かる人間でありたいと思うからこそ気楽に観られない。そんな訳で今日は休みだから時間があったのに未だアタラント号は未見。さすがに観念してこれから観ようとは思ってるけど。

しかし2006年辺りから年間200本以上の映画をDVD&BD&WOWOWで観続け、最近はネタ切れ傾向でレンタル屋を利用する機会も減ってきて、俺様も気になる映画は観尽くしたかなあとか思い上がってたけど、トリュフォーの文献に触れたら古典やアート系が徹底的に穴だらけだという事を思い知らされた。思えばこの10年間、観てきたのは近年の娯楽映画が中心だったからなあ・・ 映画探求は果てしないよ。

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