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2024年10月18日 (金)

追悼 西田敏行

西田さんの訃報に触れた時はやはりショックが大きかった。俺の人生に多大なる影響を与えたスーパーヒーローの一人なので。ただ世間的な西田さんの捉え方とは若干異なるので、昔の事を思い出しつつ自分なりに故人を偲ぼうかと思う。超長文になりますがお付き合い頂ければこれ幸い。

初めて西田さんの事を知ったのは何かのバラエティ番組だったと思う。ただその時は名前を覚えるには至らず、西田敏行という名前が記憶に刻まれるキッカケは西遊記(1978)の猪八戒役。これも西田さんの演技に魅せられたと言うより大人気番組の出演者ぐらいの認識だった。

むしろ平行して放送されていたTBSラジオ夜はともだちのミニコーナーの方が強く印象に残ってる。Wikiで調べると西田さんが担当したのはザ・バラエティ西田敏行のもうちょっとだったのに、西田敏行カントリー、西田敏行パロディカルナイト(1978-1980)。これが妙に面白くて毎回楽しみにしてた。ちなみに拙作短編映画刑事たちの午後のつまらないギャグで人を殺すネタは西田敏行のもうちょっとだったのにの1エピソードが元ネタ。

この時期放映され西田さんの地位を不動の物にしたテレビドラマ池中玄太80キロ(1980)は初回放送じゃ観てない。だから自分にとっては役者としての西田さん以上にラジオ番組の面白い人という認識の方が強かった。で、ある日のことラジオつけっぱなしでうたた寝してしまい深夜2時頃に目を覚ますと聞き覚えのある声が流れてて、それが西田敏行のパック・イン・ミュージック(1978-1982)だった。

ザ・バラエティはラジオコントみたいな内容だったから西田さんも素を出す事はなかったけど西やんパックでは下らない投書にバカ笑いしたり突っ込みを入れたり、お悩み相談的な投書では真摯にアドバイスしたり悲しい投書があれば慰めたり励ましたり、正に人間としての西田さんの人柄が垣間見え一気に魅了されてしまった。

思えばあれが俺の深夜放送初体験でもあった。世間的な知名度はオールナイトニッポンの方が上だったけどWikiで調べたらパックが1967年7月31日、ANNが1967年10月2日スタートだから先陣はパックだったりする。いずれにせよテレビ番組と一線を画す親近感が自分にとってはカルチャーショックで、そのキッカケを与えてくれた西やんパックを毎週熱心に聴く事になる。ちなみに放送は火曜深夜25:00-27:00。中学生にはキツい時間帯だね。結果、寝坊の常習犯と化すのは自然の摂理。

それから暫くはリスナーとしてラジオを楽しんでたけど深夜放送は参加型コンテンツだという事に気付いて稚拙な投書を始める。1.2通目は何を書いたか覚えてないな。そして3通目の投書をした数日後、えー次のお便りはペンネームC中のならず者、変な名前だなという西田さんの声に全身電撃が走った。そのしょーもない名前こそ正に俺のペンネームだったから。確か池中玄太の再放送がプロ野球中継で潰れて頭にきたとかそういう他愛もない内容で、今にして思えばよくもまあ採用してくれたもんだと思うほどつまらない作文だった。でも敬愛なる西田さんが俺の駄文を読み上げ電波に乗せてくれた事が嬉しくて恐れ多くて全身ガタガタ震えながら聴いた事を今もよく覚えてる。

その後もC中のならず者名義で投書を続け、採用されたのは計7回だったか。でも20通は送ったから打率3割程度。まあまあの採用率だと思うが、これは俺の作文が優れてたわけじゃなく投書自体が少なかったからだと思う。俺は大好きだったけど人気番組じゃなかったからなぁ。

初めて生の西田さんを観たのは西やんパックの公開録音イベント。当時赤坂にあったTBSホールでミニコンサートも行われて大ブレイク前のもしもピアノが弾けたならを生で聴いたのが自慢のタネ。ゲスト出演した横浜銀蝿のミニコンサートも生で観た。その時はかっけーとか思ったり。

あの日渡されたアンケート用紙とTBSの白い鉛筆は今も後生大事に保管してる。アンケートなんだから答えなきゃダメだろと思うけど当時からコレクター気質が強かったので記念品として持ち帰る事を選択してしまったと。見ると56.5.8って書いてある。昭和56年って事は1981年だから43年前の話か。

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約1年後の1982年7月31日にパック・イン・ミュージックが終了。西やんパックの最終回は泣きながら聴いたっけ。それもこれも古い古い昔話だけど俺にとっては昨日の事の様に鮮明な思い出。

西やんパック放送時期は西田さんにとっても飛躍的な年で池中玄太の第2シーズンや大河ドラマおんな太閤記の秀吉役、更にもしもピアノが弾けたならの大ヒットでどんどん雲の上の人になっていった。そして忘れられないのがとある放送日の西やんパック第一声。手元に録音データが残っているので寸分違わず文字起こしすると、

えー、最近あの町を歩いておりますとね、えー僕の顔を見かけて下さる方が、西やん、いつもテレビ観てるよという声もそりゃ多いんですけども、ラジオ聴いてるよ、パック聴いてるよという声がね、最近多いんです。嬉しいです僕!

単なるリップサービスだったのかも知れないけど熱心なリスナー的に嗚呼、この人は天上人なんかじゃない、西やんは何時までも西やんのままだと思わせてくれて心底嬉しかった。

勿論、役者としての西田さんも大好きで個人的には2003年版白い巨塔の財前又一役や近年ではアウトレイジの西野一雄役が印象深い。でもやっぱり最高なのは西やんパックの西やんなんだよな。

手元に残ってる西やんパックの録音データは計5本。毎週欠かさず録音してたのに金なかったから録っちゃ消しを繰り返し残ったのがこれだけ。うち1本は俺の下らない作文の採用回で、この期に公開へ踏み切ろうかと思ったりしたけどあまりにも稚拙で恥ずかし過ぎるから止め。そもそも著作権に抵触するしね。だから今夜は西田さんを偲びつつ一人で聴き返そうかと思ってる。

敬愛なる西田敏行さんの功績を讃えR.I.P.

2024年10月 5日 (土)

何でもかんでも値上がりだぜ

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昨年4月に補修したニューバランス1300CLの履き口がまた痛んでしまったので再度補修を依頼しに行ったら1年半前は片足2200円だった修理費が3300円に値上がりしとる。それを知らされたのが伝票を書いて貰ってる時なのでじゃあいいですとは言えずお願いしたけど高くなったなぁ。日常的に使うと耐用年数は1.5年というデータが取れたので戻ってきたら使用頻度を落として大事に使いましょ。

それと3年前に新調し日々愛用してるPORTERのリュックのファスナーが1箇所壊れたので、修理や買い換えで10何年来お世話になってる立川駅前の正規店へ行ったら別のテナントが入ってて、webで情報収集したところ今年の2月に閉店してしまったらしい。あれまぁと思いつつ最寄りの販売店を探すとららぽーと立川立飛のハンズがヒットしたのでそっちへ出向いたところPORTER製品の修理受付は正規店のみで最寄りは新宿店との事。

色々面倒な事になったけど夜は高田馬場のスポーツクラブへ行く予定だったから少し早めに出て新宿高島屋の正規店へ寄ったら見積もりが出るまで数週間、修理完了まで約4ヶ月、費用は恐らく15000円程度ですと。立川駅前のお店じゃ見積もりは数日で修理完了まで1ヶ月もかからず修理費が5桁になる事なんぞ一度もなかったのに・・ 物価高とか色々あるので無責任にネガティヴな事は書かないけど、20代の頃から絶対の信頼を寄せ愛用し続けてきた俺の吉田カバン熱が一気に冷めた事は確か。

今回は乗りかかった船って事で修理して貰うけど、またイカれたらもう修理依頼はしないし買い換えもPORTERは選択肢から外すかも。ちなみに今は先代のPORTER製リュックを引っ張り出してきて繋ぎに使用中。新調した時に修理を施し現役状態で保管してたのが功を奏した。いや、あの時直しといてホント良かったわ。

値上げで頭を抱えてるアイテムはもう一つあり、それがオメガスピードマスタープロフェッショナル3570.50。1.2年前から1日に10秒ぐらい遅れるようになりオーバーホール必須なれどメーカーがパーツを門外不出にしたため修理専門業者のメンテが受けられず、オメガSSへ正規に依頼すると80000円以上かかるって事で保留してたんだけど、ちょっと調べたら現在のオーバーホール費用はなんとまあ135300円。これはちょっと放出を検討してしまうよなぁ。

一時ほどではないけど今もスイス製機械式腕時計の相場が安定しないのですぐ売り払う事はしないが、大枚はたいてOHを施し使い続ける気力は正直ないっす。これしかなければ意地になって維持したかもだけどサブマリ様も居るからスピマスに拘る理由がない。そう言えばサブマリ様は何時もお世話になってる修理専門店でOHしていただき半月ほど前元気になって戻ってきた。こっちの費用も多少は値上がりしたけどスピマスの正規OH代と比べたら断然割安。

物価高の恩恵があるとすれば後生大事にしまい込んでたコレクターズアイテムの一部が高騰してて金に困ったとき切り崩せばそこそこ良い生活費へ化ける資産に成長した事ぐらい。それ以上に日々消費する食品やら日用雑貨やらが軒並み値上がりしてるからプラマイゼロにも成り得てない。まったく貧乏人には辛い時代だわ。

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