2024年11月 5日 (火)

追悼 楳図かずお

追悼文が続くのは寂しいけど楳図先生もまた俺の人生に多大なる影響を与えた偉大なるアーティストの一人なので、巨匠を偲びつつ個人的な思い出話を綴っていこうかと。

初めて楳図かずお作品に触れたのは小一の時で、姉貴が買ってきたサンデーコミックス恐怖全3巻。とりわけオープニングを飾る作品うばわれた心臓に強烈なトラウマを植え付けられ暫くは表紙さえ怖くて見る事が出来なかった。

終盤の展開も怖いけど、とにかく7歳児の俺を恐怖のどん底に叩き込んだのはヒロインが仮死状態で意識はあるのに体が動かず声も出せず生きたまま心臓を摘出されてしまうシチュエーション。読み返すと摘出手術シーンの書き文字がとてつもない恐ろしさで悲鳴が聞こえてきそうなほど生々しい・・というのに仮死状態だからヒロインの顔は無表情という。この描写に震え上がった同志は星の数でしょう。しかもこの作品、たった16ページしかない。恐怖マンガの巨匠ここにありといった感のある大傑作。

同時期に読んだサンデーコミックス怪第3巻収録おみっちゃんが今夜もやってくるも壮絶な恐ろしさ。実はこれ昭和30年代に執筆された蔵出し作品で恐怖シーンの多くが加筆だけど、その加筆部分がとんでもなく怖い。おみつの亡霊が夜な夜な庭先に現れロウソク片手に窓ガラスを素通りしてヒロインへにじり寄る描写が秀逸で、これまた少年時代にトラウマを植え付けられた一作。

そして広く知られる通りこの恐怖マンガの巨匠はギャグマンガの巨匠でもあり、その振り幅が凄まじい。以前も熱く語ったけど、まことちゃんの脇役らん丸は俺の中じゃバカボンパパやこまわり君に匹敵する爆笑必至の名キャラクター。その存在を初めて知ったのは丸井中野本店にあった書店(確か4F)で、立ち読みしてたら強烈な笑撃に見舞われ笑いを噛み殺して全身震わせながら読んだ事を思い出す。 

他にも多くの傑作があるけど俺の中では漂流教室こそがトップオブトップ。もう何一つ文句の付け所がない傑作中の傑作。これも機会ある度に書いてるけど俺にとってはあしたのジョー、ブラックジャックと並び崇め奉る少年マンガベスト3のひとつ。

こちらも魅力を語り始めたらキリがないけど個人的に印象深いのは鳥になって飛んでいく下級生、怪虫襲来でイスになるシーン、その怪虫へ果敢に立ち向かい無惨に散る池垣君、高松君の虫垂炎摘出手術シーン、ミイラになる大木選手、女番長、未来人間、大友君との確執、少年マンガ史上最悪のヒール関谷etc... 嗚呼もう止まらない。怖くて気持ち悪くて面白くて何度読み返しても飽きが来ない。この大傑作を世に残しただけで楳図先生は文化勲章もの。でもそれにとどまらないからこそ真の巨匠なんだと思う。

 俺、基本的にマンガ属性の人間じゃないから未読の楳図作品は数知れず。特に晩年の作品は全く読んでない。サンデーコミックスの恐怖マンガも刊行されたうち半分は読んでないから悲しむヒマがあるなら読めばいい。取り敢えずは手元にある恐怖全3巻と怪第3巻と漂流教室新書版全11巻とオリジナルおみっちゃん豪華本を読み返して故人を偲ぶ事にする。

2024年10月18日 (金)

追悼 西田敏行

西田さんの訃報に触れた時はやはりショックが大きかった。俺の人生に多大なる影響を与えたスーパーヒーローの一人なので。ただ世間的な西田さんの捉え方とは若干異なるので、昔の事を思い出しつつ自分なりに故人を偲ぼうかと思う。超長文になりますがお付き合い頂ければこれ幸い。

初めて西田さんの事を知ったのは何かのバラエティ番組だったと思う。ただその時は名前を覚えるには至らず、西田敏行という名前が記憶に刻まれるキッカケは西遊記(1978)の猪八戒役。これも西田さんの演技に魅せられたと言うより大人気番組の出演者ぐらいの認識だった。

むしろ平行して放送されていたTBSラジオ夜はともだちのミニコーナーの方が強く印象に残ってる。Wikiで調べると西田さんが担当したのはザ・バラエティ西田敏行のもうちょっとだったのに、西田敏行カントリー、西田敏行パロディカルナイト(1978-1980)。これが妙に面白くて毎回楽しみにしてた。ちなみに拙作短編映画刑事たちの午後のつまらないギャグで人を殺すネタは西田敏行のもうちょっとだったのにの1エピソードが元ネタ。

この時期放映され西田さんの地位を不動の物にしたテレビドラマ池中玄太80キロ(1980)は初回放送じゃ観てない。だから自分にとっては役者としての西田さん以上にラジオ番組の面白い人という認識の方が強かった。で、ある日のことラジオつけっぱなしでうたた寝してしまい深夜2時頃に目を覚ますと聞き覚えのある声が流れてて、それが西田敏行のパック・イン・ミュージック(1978-1982)だった。

ザ・バラエティはラジオコントみたいな内容だったから西田さんも素を出す事はなかったけど西やんパックでは下らない投書にバカ笑いしたり突っ込みを入れたり、お悩み相談的な投書では真摯にアドバイスしたり悲しい投書があれば慰めたり励ましたり、正に人間としての西田さんの人柄が垣間見え一気に魅了されてしまった。

思えばあれが俺の深夜放送初体験でもあった。世間的な知名度はオールナイトニッポンの方が上だったけどWikiで調べたらパックが1967年7月31日、ANNが1967年10月2日スタートだから先陣はパックだったりする。いずれにせよテレビ番組と一線を画す親近感が自分にとってはカルチャーショックで、そのキッカケを与えてくれた西やんパックを毎週熱心に聴く事になる。ちなみに放送は火曜深夜25:00-27:00。中学生にはキツい時間帯だね。結果、寝坊の常習犯と化すのは自然の摂理。

それから暫くはリスナーとしてラジオを楽しんでたけど深夜放送は参加型コンテンツだという事に気付いて稚拙な投書を始める。1.2通目は何を書いたか覚えてないな。そして3通目の投書をした数日後、えー次のお便りはペンネームC中のならず者、変な名前だなという西田さんの声に全身電撃が走った。そのしょーもない名前こそ正に俺のペンネームだったから。確か池中玄太の再放送がプロ野球中継で潰れて頭にきたとかそういう他愛もない内容で、今にして思えばよくもまあ採用してくれたもんだと思うほどつまらない作文だった。でも敬愛なる西田さんが俺の駄文を読み上げ電波に乗せてくれた事が嬉しくて恐れ多くて全身ガタガタ震えながら聴いた事を今もよく覚えてる。

その後もC中のならず者名義で投書を続け、採用されたのは計7回だったか。でも20通は送ったから打率3割程度。まあまあの採用率だと思うが、これは俺の作文が優れてたわけじゃなく投書自体が少なかったからだと思う。俺は大好きだったけど人気番組じゃなかったからなぁ。

初めて生の西田さんを観たのは西やんパックの公開録音イベント。当時赤坂にあったTBSホールでミニコンサートも行われて大ブレイク前のもしもピアノが弾けたならを生で聴いたのが自慢のタネ。ゲスト出演した横浜銀蝿のミニコンサートも生で観た。その時はかっけーとか思ったり。

あの日渡されたアンケート用紙とTBSの白い鉛筆は今も後生大事に保管してる。アンケートなんだから答えなきゃダメだろと思うけど当時からコレクター気質が強かったので記念品として持ち帰る事を選択してしまったと。見ると56.5.8って書いてある。昭和56年って事は1981年だから43年前の話か。

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約1年後の1982年7月31日にパック・イン・ミュージックが終了。西やんパックの最終回は泣きながら聴いたっけ。それもこれも古い古い昔話だけど俺にとっては昨日の事の様に鮮明な思い出。

西やんパック放送時期は西田さんにとっても飛躍的な年で池中玄太の第2シーズンや大河ドラマおんな太閤記の秀吉役、更にもしもピアノが弾けたならの大ヒットでどんどん雲の上の人になっていった。そして忘れられないのがとある放送日の西やんパック第一声。手元に録音データが残っているので寸分違わず文字起こしすると、

えー、最近あの町を歩いておりますとね、えー僕の顔を見かけて下さる方が、西やん、いつもテレビ観てるよという声もそりゃ多いんですけども、ラジオ聴いてるよ、パック聴いてるよという声がね、最近多いんです。嬉しいです僕!

単なるリップサービスだったのかも知れないけど熱心なリスナー的に嗚呼、この人は天上人なんかじゃない、西やんは何時までも西やんのままだと思わせてくれて心底嬉しかった。

勿論、役者としての西田さんも大好きで個人的には2003年版白い巨塔の財前又一役や近年ではアウトレイジの西野一雄役が印象深い。でもやっぱり最高なのは西やんパックの西やんなんだよな。

手元に残ってる西やんパックの録音データは計5本。毎週欠かさず録音してたのに金なかったから録っちゃ消しを繰り返し残ったのがこれだけ。うち1本は俺の下らない作文の採用回で、この期に公開へ踏み切ろうかと思ったりしたけどあまりにも稚拙で恥ずかし過ぎるから止め。そもそも著作権に抵触するしね。だから今夜は西田さんを偲びつつ一人で聴き返そうかと思ってる。

敬愛なる西田敏行さんの功績を讃えR.I.P.

2023年7月 8日 (土)

追悼 中村治雄(PANTA)

癌で闘病中という話だったから覚悟はしてたけど、やはり寂しいな。ここにも書いた通り20代の頃、追っかけレベルで傾倒した俺にとっては唯一無二の日本ロックスターなので。その肉体が荼毘に付されこの世から消えてしまう前に思い出話を綴っていく。

初めてPANTAさんの存在を知ったのは1980年頃たまたま聴いたFMラジオで、狂い咲きサンダーロードの挿入歌としてつれなのふりやが流れた時。過激なロッカーとして紹介されてたものの曲自体に過激さは感じられず、ただPANTA&HALという名前がやけに印象的で脳裏にインプットされる。

実際にアルバムを聴くのは相当時間が経過した1987年頃。この時期に日本語ロックのルーツを探求し始めたんだけど、そういう事をすれば当然、頭脳警察へ行き着く。で、色々調べたら70年代初頭の武勇伝がわらわら出てきて一気に興味が沸いた。ナイスなタイミングで頭脳警察のベストCDがリリースされ、期待に胸膨らませて聴いた際のファーストインプレッションは正直こんなもんか・・って感じ。当時の俺はアナーキーやらARBやらスターリンやらメジャーデビュー直後のブルーハーツやらを聴きまくってたのでその影響が大きかったんだと思う。進化形に慣れ親しみ過ぎたんだな。

この時期PANTAさんの最新ソロアルバムはR☆E☆D。これも聴いたけど小洒落たPOPな音だなってのが第一印象。そのすぐ後にリリースされたクリスタル・ナハトも似た印象を受けた。ただ、妙に引っかかる。音はPOPなのに詞の内容が極めてハード・・にも関わらずハードさがダイレクトに伝わってこない。何というかオブラートに包まれた印象。これは一体どういう事?と思いつつ音楽雑誌で関連記事を読み漁ってたら全ての謎が解けた。頭脳警察時代からPANTAさんはレコ倫に目を付けられてて、ストレートな表現だとNGを食らうので処世術的にこういう表現スタイルを確立させたのだと。

その事実に触れ改めてR☆E☆Dとクリスタル・ナハトを聴き返したら印象が180度変わった。もう何つーか羊の皮を被った狼の本性に触れ叩きのめされた感覚。さらに遡って頭脳警察を聴き直すと時代の息吹をも感じられるようになりズブズブとPANTAX'S WORLDへのめり込んでいく。そして今は亡き渋谷ライブインでPANTAさんのライブを観るんだけど音が滅茶苦茶ロック。アレンジ自体はCD音源と変わらないのに伝わる物が全然違う。俺、今まで一体何を聴いてたんだ??と思ったし、それより何よりロックは生で聴かなきゃ本質が掴めない事を肌で感じ病み付きにもなった。そういう点でもPANTAさんからは色んな事を学んだ気がする。

俺は一介のファンに過ぎずPANTAさんご本人との交流機会は一切なかったけど、MCや文献から滲み出る人柄に惹かれる部分も多かった。凄くマニアックで話が面白い人だなと。自伝に綴られた単車や車に関する持論に強く共感しつつ、アイドルやギャルゲーの造詣が深いというエピソードに触れた時はPANTAさんらしいなぁと思わされたり。僭越ながら他人とは思えない親しみ易さが感じられる。カリスマ性ってのはこういう事を言うんだろうな。

一度でいいから直筆サインをいただけたら嬉しかったけど残念ながらそういう機会に恵まれる事もなし。でも手元にはこんな物があったりして。

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PANTA&HALのCD-BOXをヤフオクで落札したらライナーノーツに直筆サインが書かれてた。数量限定の予約特典らしいけど備考欄に何の記述もなかったからビックリした事を思い出す。

あと、少し病的だけどこれ。

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日清パワステか大宮フリークスでPANTAさんが投げたピックと、手渡されたセブンスターの吸い殻。当時ライブへ通った人なら知ってると思うけどPANTAさんはアンコールでタバコを吸いながら現れ、最前列の客に吸いかけのタバコを手渡してから演奏を始めた。PANTAさんなりのスキンシップなんだろうけど、ある日のライブでは俺に白羽の矢が立ったわけ。愛煙家時代は俺もセブンスターを好んで吸ってたから、その点でも親近感を覚えたなぁ。

PANTAさん、貴方が居なくなって寂しいけど投げられたロック精神は今も俺の中で強く脈打ってます。今はただゆっくりお休みください。ありがとう、そしてお疲れ様でした。

2023年2月20日 (月)

追悼 松本零士

85歳で急性心不全との事だから大往生と言っても差し支えない気が。しかしご存命の巨匠はちばてつや先生や楳図かずお先生ぐらいになってしまった。あと美内すずえ先生。お願いだから俺が生きてる間にガラスの仮面の続きを!!!

松本零士さんと言えば世代的に第2次アニメブームを牽引した立役者という印象が強く、大四畳半シリーズは断片的にしか読んだ事がないし戦記物に関しては下手したら1作すら読んでない。ああ、思い出したけど大人向けのちょっとエッチなマンガを小学生の頃にドキドキしながら読んだっけ。それ以外に読んだ松本作品と言えばマンガ版ヤマトと銀河鉄道999を途中まで。マンガ作品にはそれほど深い思い入れはなかったりする。

アニメ版ヤマトが大ブームになった70年代中盤、書店には2種のマンガ本が並んでてひとつは松本御代執筆、もうひとつはひおあきらさんという方の執筆。当時ひおあきらさんはパチモン、松本御代がオリジナルだと思ってたけどいずれもコミカライズ的作品で、立ち位置に大差はなかったりする。まあ小学生のクソガキにそんな裏事情が分かる筈もないか。

999は俺の記憶に間違いがなければ少年キング初連載から読み始めてる。或いは連載開始のキングを後追いで読んだか。いずれにせよ単行本化やアニメ化される前からの付き合いなのは確か。ヤマトで一世風靡した松本先生が描くSFマンガを連載で堪能出来るという事で10巻が出る辺りまでは夢中で読んだけど途中で飽きちゃって最終回まで読んでない。劇場版アニメの1作目で満足しちゃったという事もある。

ハーロックやエメラルダスはアニメすらまともに観てないし、そう考えると松本先生と俺の接点って意外と少ない。こんな奴に追悼文を書く資格はないかも知れないけど敬愛すべきクリエイターである事は間違いないので、ここに哀悼の意を表し合掌。手元に松本作品は1冊もないけど足塚不二雄(藤子不二雄)先生のUTOPIA最後の世界大戦復刻版が松本先生の私物を複写した物らしいので、これ読んで超間接的に偉大なる巨匠を偲ぶことにする。

2022年10月20日 (木)

追悼 仲本工事

長さんみたく病気ならまだしも、ガキの頃のヒーローが感染症や事故で逝ってしまわれるのは本当に辛い。高木さん加藤さんにはくれぐれも体にお気を付けて余生を送っていただきたいと切に願うのみ。

仲本さんと言えばコント以上にスポーツマンとしての印象が強い。全員集合後半コントの体操コーナーでの立ち振る舞いや最後の決めポーズがカッコ良くてねぇ。小学校の体育の時間で随分と真似したっけ。その運動神経が最大限に発揮された傑作コントがあり、YouTube検索したらアップされてたので埋め込みリンク貼らせていただく。

構成も見事だけど何と言っても最後の締めが素晴らしい。仲本さんは注さんを蹴っているように見せかけて足の裏で押してる。それに対する注さんの派手なリアクションが無条件で観る者の笑いを誘う。名人芸と言うより正に職人芸。今宵はこの動画や手持ちの全員集合やドリフ大爆笑の録画データをリピートしつつ偉大なるコメディアンを偲ぼうと思う。

2022年9月13日 (火)

追悼 ジャン=リュック・ゴダール

ヌーヴェル・ヴァーグの旗手ゴダールの訃報が流れた。享年91。まだ死因が分からないけど盟友フランソワ・トリュフォーの逝去が1984年10月(享年52)だから大往生と言っても差し支えないのでは。

この歳になってカッコつける必要がないのでぶっちゃけて言うけど正直ゴダール作品の大半は敷居が高くて俺には理解不能でした。しかしながらゴダール分からんとは口が裂けても言えない時代を生きてきた人間なのでその辺の思い出話なんぞを。

俺が初めてゴダールという映画監督の存在を知ったのは奇しくもトリュフォーが亡くなった1984年頃。1968年の五月革命以降商業映画の世界に背を向け極めて政治的な短・中編作品ばかりを打ち出し続けてきたゴダールが79年に勝手に逃げろ/人生で商業映画へ復帰し、82年制作のパッション、83年制作のカルメンという名の女が日本でも単館上映。それに併せ気狂いピエロがリバイバル公開され一部シネフィルの間で盛り上がりを見せていた頃。俺様は若干18歳。背伸びしたがり絶頂期ですね。

当時ちょっとインテリなシネフィル(・・と卑屈な俺は決め付けてた)と対話するたび、直接的にハッキリ言われた訳じゃないけど君はゴダール様の魅力が何一つ理解出来てないね的な上から目線の蔑みを常に感じてた。まあ実際に理解出来なかったから仕方ないのだが。そんな訳で分からないけど分かったフリして周囲に吹聴してた。とは言え分からない人間のまま終わってしまうのはイヤだから気狂いピエロなんか学習塾にでも通う感覚で劇場へ7-8回観に行った覚えがある。その直後に公開されたゴダールのマリア、ゴダールの探偵は封切り直後に観たけど率直な感想を述べるとマジ分かんね!

それでも分からん監督と切り捨てられなかった理由は、敬愛して止まない映画監督や批評家のゴダール愛に溢れる記述に触れて感銘を受けたから。気狂いピエロのリバイバル公開時のパンフにある大森一樹監督のゴダール賛歌や山田宏一さんの名著、友よ映画よを読んでしまうとゴダール作品を理解したい!俺も魅了されたい!と思わずにいられなくなる。

結局俺は20本ぐらいのゴダール作品を観たのかな。やはり分からない作品は分からないけど、勝手にしやがれが当時の映画界に与えた衝撃は充分に理解出来た。俺が生まれる前の話だから想像するしかないのだが、それでも勝手にしやがれの冒頭5分間で映画業界人が顔面蒼白になった事は容易に想像が付く。長年に渡り映画業界が培ってきた映像表現の形式を完全に破壊した上で大衆の支持を欲しいままにした訳だから、そりゃオールドタイプは慌てふためくでしょ。

現代に置き換えれば自由奔放な表現スタイルで圧倒的な再生数や巨万の富を得るユーチューバーと、それに翻弄されるテレビ業界人の関係に近いかも。古いテレビの慣習ではタブーとされてきた同ポジ繋ぎやジャンプカットの応酬で揺るぎない支持を得てるんだから彼等こそ現代の映像業界に於ける新しい波だよ。それを62年前に映画界で成し得たヌーヴェル・ヴァーグ恐るべし。

一時期は手元にゴダール作品の録画データが10本近くあったのだが全然観ないので少し前に整理しちゃって、今残ってるのは勝手にしやがれと気狂いピエロだけ・・かと思いきや探偵とメイドインUSAと初期短編集(男の子の名前はみんなパトリックっていうの、水の話、シャルロットとジュール)が残ってた。短編はちょっと観返したいな。特にシャルロットとジュールはゴダール作品にあるまじき明瞭な面白さ(・・でありつつ映像スタイルはTHEゴダール)の傑作だから今宵はこれ観て鬼才を偲びますか。

2022年4月 8日 (金)

追悼 藤子不二雄A

御年88との事だから大往生と認識してるけど、やはり我々の世代的に寂しさを拭いきれず。藤子作品のない少年時代など考えられないし、その作品群は何時も隣に寄り添ってくれたからね。偉大なる巨匠の功績に敬意を表し合掌。しかし相棒のF先生が逝去されたのって四半世紀以上前なのか。その事の方が衝撃的だったりする。

藤子不二雄さんが二人体勢だという事は自伝マンガ等に触れガキの頃から知ってたけど、同名義の完全分業でやってた事は随分後に知った。子供にそんな裏事情なんぞ理解出来ないから藤子先生は作品によってこんなにも作風を使い分けられるのか!大天才だ!!とか思ったりしてた。

F先生はドラえもんに代表される子供向けファンタジーの大道、A先生は笑ゥせぇるすまんに代表される大人向けブラックユーモアってのが定説だけど、これはまあ間違いのない所だと思う。いずれも素晴らしい作品群なれど、印象度という点ではA先生の作品が一歩抜きん出てる感がなきにしも非ず。

忘れられない魔太郎がくる!!のエピソードがある。俺の記憶に間違いが無ければ読んだのは千葉に家族で海水浴へ行った9歳の時。お世話になった民宿に置いてあったボロボロの少年チャンピオンで、魔太郎が当時大人気だったブルース・リーのTシャツを着てたらいじめっ子に強奪されてしまう。その後、今度は筋肉柄のTシャツを奪われたか進呈したか記憶が曖昧だけど、とにかくその不気味な筋肉Tシャツがいじめっ子の手に渡る。で、それを着たいじめっ子は魔太郎の呪いによって全身筋肉剥き出しの怪物へ変貌してしまう。それで唐突におしまい。オチもクソもなくカットアウト。これが気持ち悪くて後味最悪で、クソジジイになった今も鮮明に覚えてる。たった1回、民宿にあった古雑誌を読んだだけなのに。

F先生の作品は綺麗にオチが付きエンドマークが出ておわりってのが多いけど、A先生の作品はとにかくカットアウトが多い。先の魔太郎にせよ笑ゥせぇるすまんにせよズバッ!と終わるから復讐劇にも関わらずカタルシスは皆無で、ドロドロした印象が何時までも尾を引く。しかもそれを計算づくでやってる。嗚呼、才人だなと改めて思わされる。

こんな事を書いてたら、あのドロッとした感触を久々に味わいたくなった。そうなると魔太郎が最適だろうな。こ・の・う・ら・み・は・ら・さ・で・お・く・べ・き・か!!

2022年1月17日 (月)

追悼 水島新司

巨星堕つか・・ でもお年だから仕方ない部分もある。水島先生の長年に渡る功績を讃え合掌。そして個人的な思い出話なんぞを。

実は俺、ちゃんと読んだ水島作品はドカベンだけだったりする。あとはラーメン屋とかに置いてあるあぶさんを少し読んだぐらい。ちなみにあぶさんって日本酒か焼酎の銘柄だと思ってて、それがアルコール度数90%近い強力なリキュール酒アブサントに由来する事を知ったのは随分後の話。

俺が初めて週刊少年チャンピオンでドカベンを読んだのは確か小四の時だったか。優勝旗盗まれたり山田が記憶喪失になったりの頃。面白いんだけど登場人物の背景とかがよく分からなくて少し掘り下げたくなり、古本屋で最初に買ったのは15-6巻。甲子園の土佐丸戦ね。これで夢中になり、1巻から読み始めたら6巻までは柔道マンガだったという。

これ、確固たる長編構想があったとしても人気が出なければ柔道マンガで完結してた可能性もある訳で、大胆な事するなぁと子供心に思った覚えがある。まあ柔道編も面白いっちゃ面白いし、ここでライバルたちとの基盤が出来上がるから重要ではあるものの、飽きっぽいガキなので野球マンガ読みたかったのに柔道マンガに付き合わされて肩すかし食らった感は否めなかった。

でも本来の野球マンガになってからは文句の付け所がないほど夢中で、弁慶高校に敗れる辺りまでは毎週欠かさず読み続けた。それまで野球マンガと言えばプロを題材にした魔球物が主流だったもののドカベンは極めて現実的な高校球児たちのドラマ。そこにリアリティと親近感があり、なおかつ選手たちの活躍ぶりと躍動感溢れる画がカッコよくて魅力的。もう野球好きで単純バカな映ちゃん少年は完全にハートを掴まれてしまった。

追悼文にもよく見られるけど水島先生の野球マンガにはルールブック的な側面もある。俺がドカベンで知ったルールのひとつがインフィールドフライ。ランナーが居る時に内野フライを捕球せずワンバウンドさせるフォースアウトダブルプレイ狙いを抑止する為、捕っても捕らなくてもアウトカウントとなる。野球って意外にこういう複雑なルールが多いから、それを分かり易く教えてくれたという点でも水島作品の功績は大きい。

あと水島先生で印象的なのはフィンガー5のジャケットイラスト。画像検索するとデビューシングル個人授業で既にイラストを担当してる。当時はまだ巨匠という立ち位置じゃない筈だからアルバイト的スタンスだったのかね。

残念ながら手元には水島作品が1冊も残ってない。でも今日ぐらいは故人を偲んで何か読みたい気分。BookOffであぶさんでも買ってくるかな。

2021年3月24日 (水)

追悼 古賀稔彦

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平成の三四郎も病には勝てず、か。バルセロナ五輪での雄姿はリアルタイムで拝見し心底感動させられたものです。偉大なる柔道家・古賀稔彦さんよ永遠なれ。R.I.P.

ちなみに画像の近代柔道1992年9月号、以前も旧サイトで公開したけど古賀・吉田両選手の金メダル獲得と世田谷学園柔道部全国制覇の合同祝賀会が催された某宴会場でたまたまビデオカメラマンとして常駐してた頃、僅かなスキを見計らい古賀選手にサインをいただいた物。会場の宴会責任者に見つかったら説教じゃ済まなかったと思うけど、記録撮影を任された時点で何がどうなってもサインを貰うんだという欲求に支配されてしまった。結果、宴会場のスタッフにバレる事なく念願のサインを手中に収める事が出来たので当時の愚行も今となっては英断だと思ったりしてる。

古賀選手はアスリートとしては勿論のことコメンテーターとしても一流で、解説者としての名調子に触れれば明白。で、俺にとって最も印象に残ってるのは金メダル獲得直後のインタビュー。

ウェイトオーバーの状態でバルセロナ入りしトレーニングで試合日までに絞り込む予定が怪我でトレーニング出来なくなり、ほぼ断食に近い日々を強いられる事になったんだと。で、古賀選手曰く、1日飲まず食わずだと1kg落ちるので、そこから逆算して試合日までの飲食物を制限し71kg級の計量をパスしたらしい。すげえなぁ。矢吹・力石に匹敵するダイエッターの鑑・・

2021年3月16日 (火)

追悼 大塚康生

大塚康生さんと言えば、ルパン三世? 未来少年コナン? いやいや、俺にとってはこれしかない。蛮ちゃんの躍動感溢れる投球フォームに酔いしれつつ巨匠を偲ぶ。R.I.P.

【追記】
今まで気にした事なかったけど王者・侍ジャイアンツで理香が駆る単車、簡略化されてるものの紛れもなくKawasaki250A1サムライじゃねえか! さすが大塚さん、わかってらっしゃる!!

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